OUCHARD, Emile Auguste1900 - 1969
E.A.ウーシャ



E.A.ウーシャは、20世紀の偉大な弓職人の内の一人で、母国フランスからアメリカのニューヨークに渡り、様々な経験を積んで、飛躍を遂げました。ただ、彼の我の強い性格上、周囲の様々な人々と衝突し、トラブルを起こす事は避けられなかったようです。


【 Emile Auguste OUCHARD の生涯 】
19007月24日 ミルクールで生まれる。
父親 Emile Francois OUCHARD は弓職人であった。
191313歳父親が働いていた CUNIOT-HURY の工房に入り、父から弓製作を学んだ。
彼の初期の頃の弓は父親と同じスタイルで製作された。ヘッドの後ろ側はかなり角ばっている。フロッグは時折 Vuillaume スタイルで製作されている。
CUNIOT-HURY の死後、その工房を C.HURY の妻と父 E.F.OUCHARD が引き継いだ。
192222歳9月2日 Andree Marie Charlotte Petot と結婚。その後4人の子供を設けた。
父親が独立したので、一緒に働き始めた。
193030歳徐々に実力を伸ばしていった。
徐々にスタイルが洗練され、父親のスタイルから離れていった。
193737歳父親は E.A.Ouchard を含め、15人の職人を雇っていた。この頃名目上工場を譲り受けたが、実質的な経営は父親が握っていた。
彼は雇用問題も含め、父親と対立状態が続き、再三父親に工房を譲り渡すように話したが父親は引退せずに、ずっと働き続けた。
MAX MILLANT に影響を受け、Hill スタイルのアンダースライドを取り入れ、生涯このスタイルをつらぬいた。この時期使用していた焼印は‘E.A.OUCHARD fils’。
194040歳度重なる父親との論争から、彼は故郷を出て、パリへと旅立っていった。
彼は Rome 通りにある建物の4階に店を構えた。
この時期から新しいスタンプ“E.A.OUCHARD PARIS”が使用されるようになった。彼のスタイルは徐々に力強い物になっていった。フロッグの細工は精密で美しい。フロッグの下に番号と日付が書かれているものもある。
194242歳パリの職人コンテストで1位を獲得。
彼はこの時期すでに弓職人として名もあり独立した地位を築いていたが、他のバイオリンメーカーやディーラーの為にも弓を製作していた。
彼は家庭内でも問題を抱え、妻や子供達とあまり上手くいっていなかったようだ。
194646歳仕事仲間の Max MILLANT の紹介でニューヨークで活躍していた弓職人 Lazare RUDIE の下へ発った。この時にバイオリニスト Yehudi Menuhin が E.A.Ouchard を支援してくれたという説もある。
彼は一人の弓製作者として独立した形で、Lazare RUIDE の工房で働き始めた。
Jacque FRANCAIS、Bernard MILLANT、Etienne VATELOT といった現代を代表する弓製作家達もこの工房で修行を積んでいた。
194747歳ニューヨークのアパートで、娘の Colette と Lucienne Francais という女性と3人で暮らしていた。
194848歳夏の終わり頃に、アメリカのイリノイ州にある大手弦楽器店 William Lewis & Son 社と契約を結んだ。
10月21日 イリノイ州に引っ越した。
この会社の85周年を記念して、E.A.Ouchard の弓を販売した。
この時期製作した弓には“E.A.OUCHARD-New York”という焼印が使用されている。すでに、アメリカでも有名であった Ouchard の作品を販売する事でこの会社の評判も上がった。
195151歳イリノイ州の家を売却して、ニューヨークへ戻った。
195555歳ブラジルへフェルナンブーコの買い付けに行く。彼は、個人的にも弓を製作して、毎年パリへ帰郷した際に、それを販売していた。
196060歳13年間のアメリカでの生活を終え、フランスへ戻った。アメリカに発つ前から、離れて暮らしていた妻 Andree Marie と離婚した。
196363歳リヨンで Renee Marie Flaux と再婚した。
彼は自宅の古くなった車庫で工房を開いた。
年と共に彼の技術は少しずつ衰えていき、生産量も少なくなっていった。
彼の最後の時期の焼印はアメリカで使用していたものから"New York"の部分を取り除いて使った。以前よりもフロッグが厚めで力強いスタイル。
196969歳2月14日に他界した。


E.A.ウーシャは、アメリカからフランスに戻ってからも、William LEWIS & SON 社と契約を続け、それらは生涯終わることがなかったようです。現在もこの会社は大手弦楽器販売店として、アメリカで業績を上げています。
彼の黄金期は1940年代から1960年の間で、その時期に製作された弓は非常にエレガントで、かつ、力強いスタイルを保っています。
大変個性の強い彼は、13年間のアメリカでの生活にも関わらず、殆ど英語が話せなかった、と言われており、家族だけでなく、お客と衝突する事も稀ではなかったようです。