SARTORY, Eugene Nicolas1871 - 1946
E.サルトリー



フランスのミルクールで生まれた20世紀の最もすばらしい弓制作者であるE.サルトリー。現在、彼の製作した弓は大勢の演奏家やコレクター達に、絶賛を浴びており、芸術的にも機能的にもとても優れたものです。
この様な現状から、価格は急上昇を続けており、19世紀の2大巨匠、”フランソワ・トゥールテ””ドミニク・ペカット”にまで追いつく勢いを感じさせます。
その理由を解明すべく、E.サルトリーの人生を追ってみましょう。


【 Eugene Nicolas SARTORY の生涯 】
1871フランスのミルクールで生まれる。
弓メーカーであった父親に手ほどきを受ける。父親に師事するのは弓製作の世界では伝統的な事で、18世紀から行われていた。
Charles PECCATTE を始めとする偉大な製作家の工房を転々とする。すばらしい師 Joseph Alfred LAMY の工房に入る。
自分の弓はまだ作れないが、すでに、この頃から才能が認められていた?!
188716歳若干16歳にて、ブリュッセルのコンクールで金メダル獲得。
自分のスタイルの弓を作ることを初めて許された。
188918歳なんと18歳にして独立。パリの10区に店を構える。
この頃、パリの経済状況がわるく、シルバーなどの高級金属が手に入らず、ニッケルを使用。
189424歳リヨンのコンクールで金メダル獲得。
189928歳4月1日 Marie Josephine Jacquet と結婚。
彼女の父親はバイオリンメーカーだった。子供は娘が2人生まれた。
この頃、フロッグはエレガントで大きく開いたUの字のところが E.SARTORY の特徴。
190029歳パリの国際コンクールで世界一の栄光に輝く。
ヘッドの形が時々 Andre VIGNERON に似ていた(しかし、二人が共に働いたという資料はない)。
190231歳パリ9区に引越し。近くにバイオリンメーカー BRUGERE が店を構えていた。
190534歳リエージェのコンクールで栄誉賞受賞。
この頃、使用する木材は茶系で赤みがかったものが多い。
190635歳ミラノのコンクールで栄誉賞受賞。
190837歳ロンドンのコンクールで栄誉賞受賞。
191140歳シテ島にあるアパートの4階に引っ越した。その頃弓制作者達の間では、音楽学校の近くに店を構えることが一般的であったが、E.SARTORY はそれを嫌い、人里離れた場所に店を構えた。
彼の作品のなかでも特別な思いを込めた4本の弓を製作。金とべっ甲仕様の弓で1本は妻に、2本は2人の娘にそして残りの1本は自分で持っていた。
191443歳パリだけではなく、地元ミルクールやナンシーなどにも工房を構える。
192049歳渡米。フランスだけではなく、ヨーロッパ、アメリカなど広い範囲で活躍していた。
あまりにも有名なため、彼の弓の模造品が流出。アメリカの空港で E.SARTORY 自身がそれを発見し、激怒。E.SARTORY は殆ど自分のスタイルで弓を製作したが、この時期 TOURTE や LUPOT といった有名製作家をフルコピーした弓も存在する。
193362歳妻の Marie Josephine Jacquet が他界。
193564歳2月 Emile Josephine Augustine と再婚。
193968歳ニューヨークの展示会に金とべっ甲仕様の弓を送る。
この頃、だんだんとスティックは太くなり、明るい色の木材を好み、八角の弓が増えた。
194675歳3月5日 パリのシテ島にある工房で他界。
故郷ミルクールに埋葬された。


この様に、E.サルトリーはなんと6つのコンクールで賞をとり、(しかもひとつは若干16歳で)そして、またその技は多くの若い職人に受け継がれていったのでした。

また、彼は大変研究熱心で、弓のスクリューの摩擦を制御する方法やフロッグを頑丈にするための発見などをしました。この業績は今現在も弓制作者達にとって、とても価値あるものとなっているのです。


E.サルトリーの主な弟子
(時には信頼できるアシスタントとして、共同で弓を製作した)
 ・Jules FETIQUE(パリの工房)
 ・Louis MORIZOT(ミルクールの工房)
 ・Louis GILLET(ナンシーの工房)