古沢 巌 / セスト・ロッキ
 日本で初めてソロ・コンサートマスターの地位に就任したヴァイオリニストの「古澤 巌」さんは、この楽器を8年ほど前に手に入れ、2017年2月まで愛奏していました。
それはイタリアのロマーニャ州「エミリア」にある人口6,000人にも満たない小さな街「サン ポーロ デンツア」で1962年に「セスト・ロッキ」という弦楽器製作家によって製作された作品です。



 「セスト・ロッキ」(1909〜1991)は、幼少の頃からヴァイオリンを習っていましたが、ある日、自分のヴァイオリンを床に落とし、壊してしまいます。しかしそれを厳しかった父親に見つかることを恐れ、隠しながら工夫して自分で修理したのです。このことが後に弦楽器製作家になろうと思った、初めてのきっかけだと「セスト・ロッキ」自身は語っています。



 その後、17歳の頃から本格的に弦楽器製作を「ガエタノ・スガラボット」に師事し、さらにその後はパルマにある学校でその製作を学びました。
そして学校を卒業したロッキは、ミラノに行き、スガラボットの師匠「レアンドロ・ビジャッキ」の工房に入ります。ロッキはこのビジャッキに大変気に入られていたようで、ビジャッキ・ファミリーと同じ家で暮らし、共に生活をしていました。そのため、ビジャッキの工房や自宅で修理修復やディーリングの際、数多くの素晴らしい楽器に触れることが出来たのです。このことは彼の後のキャリアに大きな影響を及ぼします。
 その後、ビジャッキは二人の息子「ジャコモ」と「レアンドロJr.」に自分が築き上げた大工房を譲り、ミラノからヴァレーゼに移ります。そしてロッキはその息子達の新しい会社「ジャコモ&レアンドロ・ビジャッキ」社には残らず、父「レアンドロ・ビジャッキ」と共にヴァレーゼへ行き、彼のために働きました。
 しかしそれから数年後にビジャッキは70歳になり、まだ25歳のロッキの経験量や将来を心配して、他の工房でも働くことを奨めます。そしてロッキはドイツのストロブルや、ミラノのモンツィーノのためにも働きました。それらの経験を経て、ロッキはついにパルマの近くにある小さな街「サン ポーロ デンツア」で自分の工房を作り独立します。
しかし、それから間もなく第二次世界大戦が勃発し、ロッキは徴兵されて戦場へ行くことになったのです。


セスト・ロッキ



 戦後、ロッキは健康な体で無事に帰国しますが、ロッキの工房や工具等は戦時中にすべて破壊されてしまったため、数年がかりで仕事場を修復し、弦楽器製作を再開します。


 ここからロッキの快進撃が始まります。


 その後の生涯でロッキが製作したカルテットの楽器10作品と、アンティークに仕上げた楽器数作品が、弦楽器製作コンクールのメダルを受賞したのです。
ロッキは元々とても器用で刃物使いに優れ、極めて精度の高い正確な作品を製作していました。しかも縁周りは温かみのあるラインで仕上げることを意識的に行っていたため、フランス製の楽器に見られがちな冷たい印象を与えることなく見事な楽器を製作したのです。これは過去にビジャッキの工房でクレモナのオールド楽器を研究した成果と言えます。特にアンティーク仕上げに於いては、ロッキの師匠だったスガラボットやビジャッキのニス塗りの技術に加え、ビジャッキ工房で数多くの銘器に触れた経験が生かされていることは疑う余地もありません。



 その後、ロッキは66歳になると目の病で1年間休業を余儀なくされます。
それ以降はこの病気の影響に加え年齢的な衰えにより、ロッキの弦楽器の製作本数は減っていき、作品も徐々に衰えていきました。そして1991年に82歳でロッキはその生涯を閉じたのです。




セスト・ロッキ





 今回ご紹介する1962年製の楽器 “セスト・ロッキ” Ex:Iwao は、ロッキ自身により「Nazarenus」(ユダヤの神の意)と名付けられたカルテット作品の中の一丁です。
これは、同1962年にフローレンスで行われたコンクールで、ロッキの製作したカルテットの作品が賞を獲得した年の作品で、彼の作品の中でももっとも素晴らしい作品の一つです。
その音色は、古澤巌さんの下記のCDアルバム全てでお聞きになることができますので、ご興味のある方は是非レコード店でお求めください。












この楽器の音は下記のCDでお聞きいただけます。








古澤 巌  ヴァイオリニスト

3歳半よりバイオリンを始め、79年日本音楽コンクール第1位。

82年桐朋学園大学首席卒業の夏、小澤征爾の推薦でタングルウッド音楽祭のコンサートマスターを務め、ルイ・クラズナー(ベルクの協奏曲進呈者)に室内楽を師事。
83年冬から政府給費留学生として全員奨学生のカーチス音楽院(フィラデルフィア)に編入、85年春に卒業。レナード・バーンスタインの超エンターテイメントと、セルジウ・チェリビダッケの悪魔の様な音楽の両極を学ぶ。カーチス時代の2年半、毎週末フィリーのダウンタウンのストリートでプレイする。
85年夏よりモーツァルテウム音楽院(ザルツブルク)に移り、ハンガリーの鬼才シャンドール・ヴェーグ(2年間)、黒海からのユダヤ人ナタン・ミルシテイン(足かけ8年間)、パリのイブリー・ギトリス(4年間)の元で修業する。アバド・コンクール(ソンドリオ)第1位。
86年夏27才の時、大学1年の葉加瀬太郎と出会い、ジプシーバンド「ヴィンヤードシアター」結成。遂にバイオリニストになることを決める。(それまで公演ではNGだったモンティのチャルダッシュの演奏を始める)。
88年、ソリストとコンサートマスターに就任(東京都交響楽団4年間)、世界ツアーに出る。在響中はヨー・ヨー・マとブラームスのドッペルコンチェルト等、様々な協奏曲を演奏する機会を得る。

93年「ピースライトBOX」のCM出演、交流のあったステファン・グラッペリのバンドメンバーとパリで録音する。後に、グラッペリ自身とは96年に彼の最後の録音としてミニアルバムを制作(97年他界)。ギターのアサド兄弟等、修業のため常に海外から素晴らしい音楽家を招聘しながら共演を続ける。

そして、2006年HATSに移籍。今の全てが「はじまり」、現在に至る。

身体の使い方を合気道(3段)に、未知なる幸せをレイキ(皆伝)に、リズム感をダンス(ルイス佐々木、一人でできるもん)に、馬の気持ちを乗馬(20年)に、ビートの波に乗る為にサーフィン教室に、スピード感をレース(テラモス)に、基本の身体造り(PCY)に。まだまだ修業は、続いてゆくのか…。



古澤 巌 〜 HATS ウェブサイト ≫ http://hats.jp/artist/profile?id=2










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参考文献
「Universal Dictionary of violin & bow makers」  著 William Henle
「Liuteria Itariana」  著 Eric Blot
「L’Archet」  著 Bernard Millant, Jean Francois Raffin