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「ピエール・シモン」(1808〜1881)は、ミルクールで弓製作を習い始めますが、20代の頃は様々な問題を起こし、留置所に入るほどの事件を起こした事もありました。しかし、30歳の頃パリへ出て、19世紀の弓製作の巨匠ドミニク・ぺカット(1810〜1874)に就いてからは真面目に働き、その弓製作の技術を向上させます。その後、J.B.ビヨーム(1790〜1875)の工房にも出入りするようになり、この頃、ビヨームの考えたセルフリヘアリングの弓も製作しています。
39歳の頃、ペカットがミルクールに仕事の拠点を移してから、そのペカットのパリでの仕事をシモンが引き継ぎました。この頃から同じ工房で働いていたジョゼフ・アンリ(1823〜1870)と共同して仕事をするようになります。そのため、この時期の二人の作品はとても似ており、“SIMON” スタンプの弓の殆どは、アンリによって製作されたと考えられています。しかし、次第に二人の関係は上手く行かなくなり、シモンが43歳位の頃、アンリは独立して店を構えました。この頃から、シモンの弓に変化が現れます。ヘッドが少し細く丸みを帯び、女性的になりますが、スティックは太めで、フロッグも力強くなります。この頃に作った弓には“SIMON, PARIS” のスタンプが押されています。
シモンは上記の通り、20代ではあまり真面目に働いていなかったのですが、2歳年下で幼なじみだったペカットに習った事からも、30歳の時にプライドを捨て、心機一転やり直した事がわかります。そのため、その後は必死に働き結果としてとても多くの弓を製作し、現在では非常に多くの演奏家、コレクターに求められています。そして、彼は彫金技術にも大変優れていたため、フロッグは鼈甲に装飾を施した物も多く、また、当時力のあったビヨームやガン等のためにもとても多くの弓を製作しました。
この弓 “ex Asa Nakajima” はそのビヨームの為に作った弓です。その特徴は、力強いペカットスタイルではなく、音色を求めたビヨームスタイルで製作されているため、非常に柔らかくて深い音色を持っています。この深い音色は1900年以降の弓では、とてもならす事ができないでしょう。 中島麻さんはこの弓を、楽器「エンリコ・ロッカ」で4年間、「フランチェスコ・プレセンダ」で4年間、計8年間ほど使用していました。 しかし、近年楽器を「ニコラ・ガリアーノ」に変え、それに合わせて弓をランクアップしたため、このシモンの弓を手放す事になりました。この弓に関するお問い合わせは こちらから お願いいたします。
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 中島 麻 (なかじま あさ)

幼少期をニューヨークで過ごし4歳よりヴァイオリンを E.Woretely、R.Resnick 各氏に手ほどきを受ける。
桐朋女子高等学校音楽科・桐朋学園大学卒業後、ローム音楽財団奨学生としてザルツブルク・モーツァルテウム音楽大学修士課程を満場一致の一等賞、首席修了。在学時より、桐朋学園大学オーケストラのコンサートミストレス、モーツァルテウム音楽大学オーケストラのコンサートミストレスを務めた。
2006年「イヴリー・ギトリスと素晴らしき仲間たちコンサート」にソリストとしてギトリス氏と共演。
メニューイン記念音楽財団賞、ライファイゼン音楽コンクール(オーストリア)最高位、第11回国際弦楽器コンクール「ルドルフマッツ」(クロアチア)等、国内外で多数入賞、第8回国際ブラームスコンクールセミファイナリストディプロム授与、2012年12月チャイコフスキーピアノトリオオーディションにて優勝。世界各地でのリサイタルやサンクトペテルスブルグ響、ドイツ・イエナ響、キエフ響、ウクライナ・ハリコフ響、クロアチア・デュブロフニク響、チェコ・ボヘミア響、スリランカ響などとソリストとして多数共演。2007年皇后美智子妃殿下御前の聖心100周年記念リサイタルにて演奏。
ザルツブルグ・モーツァルテウム管弦楽団契約演奏員を務め2008年帰国。現在イルミナートフィルハーモニーオーケストラコンサートミストレス。東京モーツァルトプレイヤーズメンバー。
群馬交響楽団ゲストコンサートマスター、静岡交響楽団ゲスト首席に招かれる。
宮崎国際音楽祭、軽井沢国際音楽祭、サイトウキネンフェスティバル松本「若い人のための音楽会」、サイトウキネン室内楽勉強会、小澤征爾音楽塾オペラプロジェクト、別府アルゲリッチ音楽祭室内楽演奏会などに出演。
ヴァイオリンを徳永二男、Igor Ozimの各氏に、室内楽をHagen弦楽四重奏団に師事。
2011年ファーストCDソロアルバム「 Asa Cantabile 」をリリース。
≫ ヴァイオリニスト 中島 麻 オフィシャルウェブサイト
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